人格マグネティズム

国語の資料集(中学)でみて気に入った言葉をタイトルに引用しようとしたけど微妙に違った

ゆく年くる年

12月31日

2012年のタスキを背負った日にちは彼で最後

つまり2012年のアンカーだ

アンカーの表情は千差万別、ひとによってまちまちだ

満足感に満ちている日アンカーもいれば悲壮感漂うアンカーもいる

だが他人のそれを気にする必要は無い

 

みんなちがってみんないい

 

そうだろ?金子みすゞ先生ッ!(天を見上げながら)

(;O;)

お皿が高い位置から地面に落ちる様子をビデオで撮影したとする

そのビデオをコマ送り再生する

そうしたら当然どこかのコマとコマの間に割れる瞬間、つまりとあるコマ(コマ1とする)では割れていないお皿が次のコマ(コマ2とする)に進んだら割れてしまうという瞬間が存在するのだ

コマ1ではまだまだ食器としての体裁を保っていたお皿が

コマ2ではただの危ない陶器の破片と化してしまうのだ

たった一瞬の間に

 

江戸時代の人は割れたお皿は修復してまた使っていたそうだ

しかし現代人はどうだろう

今や100円均一でもお皿が買える時代にわざわざ修復して使うという人がいるだろうか

そのお皿が高価なものや職人の手作りじゃない限り、お店にはその割れたお皿と同じ形、模様をしたお皿が売っているのだから、わざわざ修復しようと思う人はいないだろう

そしてお皿が割れたという事実は時間の流れによってだんだん重要さを失ってゆくのだ

 

人間にだって同じことが言えよう

昨日までコンビニでレジを打っていた人が急な病に臥そうが、利用客である私たちは何ら気にも留めないし

その人が復帰しようとしても、コンビニや利用客は彼を必要としないかもしれない

なぜなら代わりが利くからである

大げさに言うと、病が発症したその一瞬で彼はコンビニ店員としての地位を失うのである

 

 

そう考えると人生がなんだかよく分からなくなってくる

自分が懸命に神輿を持ち上げていても、誰も気付かない

つまり、誰も評価してくれない

崇められるのは神輿の上に乗っかってる神様だけである

神輿を担ぐ人間などそのお飾りにすぎないのだ

 

そうなってくるともう”自己満足”の世界に逃げ込むしかない

「一生懸命神輿を担ぐおれカッケー」と自分に酔いしれるのだ

 

ん?

 

何だ、こっちの方が楽しいじゃないか

いいじゃないか自己満足

 

他人からどう思われていようが自分がカッコイイと思っていればそれでいいのだ

こんなに気楽なことがあっていいのか

 

 

世界の中心はほかでもない!自分だ!

 

ビバ人生!

 

 

 

(こんな長文を書いてしまって我ながら赤面の至りなのでtwitterで通知はしません)

足跡

新雪の上を目隠ししながら歩いたとする

自分のイメージとしてはきれいな直線が描かれている

しかし実際はふにゃふにゃの醜い線が描かれていた

 

そんなふにゃ線でも遠くから見たら直線に見えなくもないかもしれない

もっともっと遠くから見たら点でしかないかもしれない

逆に近づいてみるときれいに足の形が残されている

 

そんな人生

不満

この世は不満で満たされている

つまり”不満”が”満”なのだ

(ここで満という字はゲシュタルト崩壊を起こしやすいということについても触れておかねばなるまい)

不満に満たされたこの世界をどう生き抜くか

その答えはズバリ我慢である

 

不満が満不満が満不満が満不満が満不満が満・・・不満我慢