冷やし中華はじめました
エイプリルフールーーいえーい
一同「うぇーい」
早咲きの桜は寿命が短いとよく言われますがまだまだ持ちそうですね
寒暖の変化が激しいので風邪をひかないように気をつけましょう
さて、ぼくはいまヨコハマから電車で3時間ちょっとの所にいます
帰って来ても、一人
お腹すいても、一人
体調悪くなっても、一人
といった具合の生活を送っています
上の絶望した!ってセリフから分かる人もいるかもしれませんが
最近絶望先生という漫画を集めていまして、つい昨日全部読み終わりました
一丁前に解説できるような脳味噌は持ち合わせていませんので省略しますが、おもしろいかったです
まだ読んでない人はブックオフとかで集めてみてはいかがでしょうか
最後に
人の命は儚くてまるで桜のようにすぐ散ってしまいます
だからせめて咲いているうちは、好きなことをして、きらきらした顔を世間に見せつけてやりましょう
桜の花が人の心を惹きつけて止まないように、ぼくらの笑顔だって同じことができるはずです!!
人生を楽しみましょう!
そうだ!!!!!!!!!!!
人生を謳歌(桜花)しましょう!!!!!!!
すべった?(◞‸◟)
カルピス
今日は某手続きのため都内某所へ向かった
途中で自販機があったのでちっちゃいペットボトルのカルピスを買ったら何故か二本出てきた
最初は毒でも入ってるんじゃないかと疑ったがどうやら開封した痕跡が無いようだったのでありがたくいただいた
(カルピスって何!?って方はコチラ)
でもぼくが2本もらって行ったせいで次の人がカルピスを買えないなんて言う謎状況が発生してしまったとしたらいたたまれない気分になる
でも人生ってそんなものでしょう
幸せの量(量なんてものがあるかは知らないがあるとしよう)
は地球或いは宇宙、それより大きいかもしれない規模で保存されていると思う
誰かが幸せを欲張ればどこかではっぷっぷーな人が生まれてしまう
奴隷制なんてものはまさにソレだ
だから欲張ってはいけない
けどぼくはカルピスを2本飲んでしまった
しにたひ
某手続きは美人の受付さんが優しくおしえてくださったため、30分もかからず終わった
そのあとはヨコハマとのしばしの別れを楽しんだ(?)惜しんだ(?)
なんて言ったらいいのかよく分からない
ツイッタァでちょろっと言ったがぼくはヨコハマを離れる
気が向いたらフラッと東京や海、アニメイトにいける大好きな土地だが仕方ない
これも人生ってやつだろう
幸せな出来事やその逆、ふしあわせな出来事には予兆ってもんが必ずあると思う
今日のカルピス君がその幸せの予兆・・・!
なんてのはちょっと都合がよすぎるかしら
豆
今週のお題「節分」
昔はよくやりましたね、節分
鬼は外ー、福は内ーって
で、一ヶ月後くらいにテレビ台の裏とかからほこりまみれの豆が出てくるのね
ああ、何年前だっただろう、最後に豆まきをしたのは・・・
無邪気に声を出して豆を投げていた僕はここにはおらず
いるのは退治されるべき鬼なのかもしれません
そうそう、何故か昔の記憶は僕の目線からじゃなく第三者、それも宙に浮いている人の目線で思い出されるんですよね
まるで本当に中身が入れ替わってしまったみたい
む~~~~~~~~~~~~~~~~
カムバックあたし!
豆がにゃんあずに似た例のゴキブリ的な奴のエサになっていると思うとイラッ☆としますね(^-^)
2013年がやってくる!ヤァ!ヤァ!ヤァ!
年越しイベントが開かれるということで僕の家の近くのテーマパーク的なアレは多くの人で賑わっている
あんなにも多くの人を興奮させる2013年とは何者なのだろう
その答えを探るべく僕は生きるのだ
あけおめことよろ
メモリアルでい
最近は例のカーデガン的な何かを手放せないくらい寒いですね
寒いと言えば冬
冬と言えばサンタさん
サンタさんと言えばクリs・・・
・・・・・・・・・・
はてなブログ1周年おめでとう! id:hatenablog
(;O;)
お皿が高い位置から地面に落ちる様子をビデオで撮影したとする
そのビデオをコマ送り再生する
そうしたら当然どこかのコマとコマの間に割れる瞬間、つまりとあるコマ(コマ1とする)では割れていないお皿が次のコマ(コマ2とする)に進んだら割れてしまうという瞬間が存在するのだ
コマ1ではまだまだ食器としての体裁を保っていたお皿が
コマ2ではただの危ない陶器の破片と化してしまうのだ
たった一瞬の間に
江戸時代の人は割れたお皿は修復してまた使っていたそうだ
しかし現代人はどうだろう
今や100円均一でもお皿が買える時代にわざわざ修復して使うという人がいるだろうか
そのお皿が高価なものや職人の手作りじゃない限り、お店にはその割れたお皿と同じ形、模様をしたお皿が売っているのだから、わざわざ修復しようと思う人はいないだろう
そしてお皿が割れたという事実は時間の流れによってだんだん重要さを失ってゆくのだ
人間にだって同じことが言えよう
昨日までコンビニでレジを打っていた人が急な病に臥そうが、利用客である私たちは何ら気にも留めないし
その人が復帰しようとしても、コンビニや利用客は彼を必要としないかもしれない
なぜなら代わりが利くからである
大げさに言うと、病が発症したその一瞬で彼はコンビニ店員としての地位を失うのである
そう考えると人生がなんだかよく分からなくなってくる
自分が懸命に神輿を持ち上げていても、誰も気付かない
つまり、誰も評価してくれない
崇められるのは神輿の上に乗っかってる神様だけである
神輿を担ぐ人間などそのお飾りにすぎないのだ
そうなってくるともう”自己満足”の世界に逃げ込むしかない
「一生懸命神輿を担ぐおれカッケー」と自分に酔いしれるのだ
ん?
何だ、こっちの方が楽しいじゃないか
いいじゃないか自己満足
他人からどう思われていようが自分がカッコイイと思っていればそれでいいのだ
こんなに気楽なことがあっていいのか
世界の中心はほかでもない!自分だ!
ビバ人生!
(こんな長文を書いてしまって我ながら赤面の至りなのでtwitterで通知はしません)